NOTES

光をさがす旅の途中で -映画『サーチライト-遊星散歩-』に寄せて-

update at 2023/12/04

ぼくの監督最新作となる『サーチライト-遊星散歩-』がこの12月から都内再上映と各地での公開が始まります。この作品は昨年末の映画祭でのお披露目から、MOOSIC LABでの招待上映を経て、今年の10月に新宿K's cinemaをメイン館として公開されました。新宿、立川、横浜、そして福岡で上映され、この小さな作品の存在を知っていただき、劇場まで足を運んでいただいた皆さまには本当にいくら感謝しても足りないくらいです。

 

『サーチライト-遊星散歩-』は自分がこれまで創ってきた映画の中でもとりわけ人間のあたたかくて優しい、でもとても傷つきやすい心に目を向けた作品だと思っています。まだ16歳の主人公が病を患った母との暮らしを余儀なくされている状況で、そのことを誰にも言えずに独りで抱えている問題を見つめています。映画館でこの作品を観ていただいた方たちからも真摯で切実な言葉を込めた感想を伝えていただくことが多く、もちろん自分もこの物語に誠実に向き合ってきたつもりではあるのですが、それ以上に出逢っていただいた方たちの生活や価値観と作品とが繋がって新たな意義を獲得していくという、物作りをしている人間にとって非常に幸福な実感をこれまでの作品以上に与えてもらいました。

 

だからこそ、この作品を賛も否も含めてこれまで支えてくれた方たちの愛と応援に報いたいという気持ちが自分の中でも強まり、もっともっと多くの街や人にこの映画を届けたいと切に願うようになりました。低予算で作られて、宣伝予算も少ない中、作品関係者や劇場のサポートで何とかここまで走ってこれましたが、もっと出来ることがないかと考える日々を送っています。映画館がどんどん閉館していってしまっているという切実な問題も、業界内で依然として闇深く根付いてしまっているハラスメント問題も、世界で起こっている悲劇も、先の見えないこの国の暮らしも、僕やあなたの生活も、何もかも決して無関係ではありません。辛く苦しい状況の中で助けを求めることができない人たちについて、そんな今にも消え入りそうなSOSに気づいて耳を傾け、手を差し伸べることができる人たちについて、この『サーチライト-遊星散歩-』という物語は改めて自分に気づきと学びを与えてくれました。もちろん自分の作品だからそもそも愛を込めまくっているのですが、自分の監督クレジットなんか外してしまいたいぐらいに、この映画が無垢な光の魂としてどこかの街の知らない誰かに届いてくれたらと願っています。

 

『サーチライト-遊星散歩-』の旅はまだまだ続きます。この12月は東京ではMOOSIC LAB 2024の招待作として新宿のK's cinemaで12/5(火)と12/17(日)に、年明けには下北沢のシモキタエキマエシネマK2にて1/9(火)と1/14(日)に、アップリンク吉祥寺では1/22(月)に上映されます。また、12/8〜12/14は栃木の小山シネマロブレで、12/15〜12/21は北海道は札幌のサツゲキ、宮城は仙台のフォーラム仙台、群馬は高崎のシネマテークたかさきにて、12/16〜12/22は新潟のシネ・ウインドで、年末年始の12/30〜1/12は広島の横川シネマで上映されます。

 

 

 

最後になりますが、この映画の都内再上映、各地での公開を記念して、たくさんの方たちからコメントを寄せていただきましたので是非紹介をさせてください。

主人公・果歩の誠実さをおびやかす、1度抱きしめたくらいじゃ埋められない現実を、それでもずっと抱きしめ続けているような映画だった。

私は今までどれだけの人に支えられて大人になったんだろう。そして、今の私には何ができるんだろう。

最後に聞いた果歩の声は、胸の中で希望のように光っている。

奈緒(俳優)

 

小さい頃、空に登るように伸びたあの光は何ときくと親にパチンコ屋だと教えてもらい少しガッカリしたのを思い出す。

主人公果歩のような少女はきっと世の中にたくさんいる。そんな彼女たちにまず必要なのはお金より先に人の優しさだ。

合田口さんの歌が作品全体を優しく包み込んでいてよかったです。

世紀末(漫画家)

 

あっという間の93分。新たな青春映画の傑作。

瑞々しい中井友望さん。気持ちの良い山脇辰哉さん。憎めない安藤聖さん。恐怖の山中崇さん。完璧なキャスティング。

そして、カメラから伝わる呼吸。スクリーンを見つめながら気づけば人物と一緒に呼吸していました。

戸田彬弘(映画監督)

 

これは「おままごと」の映画だ。

けなしているのではない。飯事と書いて、ままごとと読むのだ。

ならば生きること――全ての生産活動は飯事から始まるわけだが、本作でそのために窮地に立たされる二人、中井友望と山脇辰哉が血を通わせた若者の、必死の、ギリギリの、健気なおままごとにキュ~っと胸を衝かれた。

 

轟夕起夫(映画評論家)

 

中井友望が放つ思春期の高潔さ。美しいけど、これが厄介。

母を守るがための疾走に、誰も気づかないし、追いつけない。

たった1人だけでも並走する者が現れることを、この映画は眩いサーチライトで闇に照らし、祈りを込める。

汝、側にいる者の困窮に気づけ、走れ、動け!

金原由佳(映画ジャーナリスト)

 

中井友望さんの佇まいに惹かれました。

この映画に救われる人はいると思う。

貧しさと優しさについて考えました。

今泉力哉(映画監督)

 

病の母を慕い支えるため傷ついていく果歩と、彼女の痛みを受け止めようともがく輝之。

二人を演じる中井友望さんと山脇辰哉さんがすばらしい。

辛い生活、重すぎる負担、望まぬ選択。

そんな悲しみの果てに至るラストは、映像で語るリアルで優しい詩なのだろう。

井上経久(シネ・ウインド支配人)

 

映画の作り方、現場をよく知っている男、平波亘の最新作はとんでもなくピュアな映画。

なんといっても中井友望の透明感たっぷりの存在感。

そして平波亘の映画に対するピュアな気持ちがスクリーンで爆発する。

これぞ、シン平波亘の映画美学。

坪井篤史(シネマスコーレ支配人)

今の時代を的確に捉え、社会への批判精神と、そこから生まれる絶望と希望が、愛くるしい青春映画の中に巧みに描かれ、観る側の感性に突き刺さってくる。

また監督の想いとこだわりが実に丁寧で繊細、時に冷静、時に熱く、映画の品格をバシッと見事に決めてくれている。

いい映画だ!

松井良彦(映画監督)

 

“ 子供には幸せになる権利がある。

中学生の頃に読んだ小説の中にあった言葉です。当時の私は目から鱗でした。

社会や親の役に立てず、生産性のない自分に「幸せになる権利」があるとハッキリ言われた衝撃。『サーチライト-遊星散歩-』はこの言葉が何度も何度も胸に湧き上がってくる映画でした。

幸せになる権利を私に教えてくれたのは本でしたが、果歩にとっては輝之でした。

不吉霊二(漫画家)

 

登場人物たちの眼差しが、互いの孤独をまるでサーチライトのように照らしだしていた。

それぞれの瞳が、発せられる言葉以上に雄弁に内に秘めた思いや感情を伝えて、いつしか道標のように導いていく。

サーチライトは、何かを照らしだすだけでなく、誰かの道標にもなりえるのだ。

この映画には今の混沌とした世界を生きる私たちに必要なものが詰まっている。

菊地健雄(映画監督)

 

様々な映画を観て、映画に携わってこられた平波亘監督の映画愛が詰まっている作品だと思いました。

魅力的な登場人物だったり、ふとしたところに遊び心があったり、とにかくものすごく微笑ましい気持ちで鑑賞させていただきました。

二ノ宮隆太郎(映画監督・俳優)

 

平波亘という人間の優しさが、ロマンティシズムが、スクリーンの中に溢れていた。

映画の中でミクロとマクロが共存する様は僕らの現実であり、そして希望でもあってとても美しかったです。

宇賀那健一(映画監督)

 

果歩みたいな子には映画を観る余裕なんてないから、きっとこの作品は届かない。

例え観られたとしても頑なに家庭の事情を隠すだろう。

だからもしそんな子を見つけたら、輝之を思い出して欲しい。

救えなくてもいい。

責めないで欲しい。

諦めないで欲しい。

いつかきっと心が解けるから。

この作品がそんな奇跡を起こせますように。

小野周子(本作脚本)

 

遠く離れた場所で暮らす家族への思い、知人や友人の何気ない言葉で救われたこと、自分の無意識な言葉や行動で誰かを傷つけてしまったこと。

優しさや寄り添いが時として鋭いナイフになってしまうこんな時代だからこそ、こういう映画が必要なんだと信じて作りました。

それは誰かの人生を応援したり、背中を押してくれるみたいな気の利いたものではないのかもしれませんが、果歩も、輝之も、この映画も、いつだってあなたと一緒に走ります。

ぜひ彼らの放つ光を見つけてください。

平波 亘(本作監督)

もう二度と会えない同級生たちへ -映画『サーチライト-遊星散歩-』セルフライナーノーツ-

update at 2023/10/14

 年齢を重ねると物忘れが多くなってくるものだが、不思議と昔のことは鮮明に憶えていたりする。それはだいたい小学生の頃から高校生ぐらいの記憶で、自分は割と友だちが多かったような気がしているのだが(個人の感覚です)、最近は毎日のように年代ごとの友だちとの思い出がフラッシュバックしている。(走馬灯なのか…?)


小学5年の時のバレンタインの放課後、昇降口の下駄箱でぼくのことを待ち伏せしている同級生の女の子Aさんがいた。それに気づいたぼくは下駄箱を通らずに上履きのまま家に帰った。Aさんはクラスでいじめられていた子で、自分はその子からチョコを貰うことでそのいじめに巻き込まれたくなかったんだと思う。

中学3年の時、学校の廊下で隣のクラスのヤンキーBくんがベルトで思い切りぼくの背中を殴りつけた。生涯トップ5に入る痛みに悶え苦しむぼくの仇をとるために同じクラスのCくんとDくんが怒り狂ってBくんのことを追いかけて成敗してくれた。ぼくはなんだかそれが嬉しかったことを憶えている。

高校の時にぼくが勝手に親友だと思っていたEくんという同級生がいた。彼は誰よりも早くバイトを始め、卒業後上京して旅行会社に就職した。夢や目標を持つEくんのことがぼくは羨ましかった。自分が東京に遊びに行った際に会って彼の家に泊まる約束を取り付けたのだが、飲み屋を出た彼はなぜか急にぼくを家に泊めることを断固拒否し始め、ぼくを夜の街に放置して去っていった。大雨が降るなか、怒鳴りあって喧嘩して彼が言い放った言葉をぼくは一生忘れない。「これが東京なんだよ」夢を抱いてこの街に出てきた彼に何があったのだろう。それ以来彼とは会っていない。

こんな自分なんかを好いてくれたAさんのこと、殴りつけたBくんのこと、仇を討ってくれたCくんとDくんのこと、親友だと思っていたEくんのこと。考えてみれば、ぼくは彼らのことを何もわかっていなかった。環境や生活によって人格が形成されていってしまう多感な10代という時期に、ぼくはそんな同級生たちが学校で見せる表情や行動から、彼らが心のうちに抱える悩みや苦しみ、葛藤や正義や思想について、思いを巡らせることができなかった。この世界で暮らすぼくたちは自分のことでいつもいっぱいいっぱいで、自分以外の他者に対しての想像を巡らせる暇も余裕もなかったりする。Aさんがどうしていじめられていたのか、Bくんがどうしてぼくを殴ったのか、CくんやDくんはどうしてあの時怒ってくれたのか、Eくんは東京に出てきて何があったのか、あのときのぼくはそんなことを想像しようとすらしなかったのかもしれない。誰かと誰かが繋がることなんて実はとても簡単なことだけど、本当にお互いを理解し合うことはとても難しいことだし、そこから離ればなれになってしまうことも、実は本当に容易いことだったりもする。「その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」というのは某漫画の名言だが、まずその人を知ろうとすること、そう思える人間になりたいと自分はいつも思っているし、自分が大切だと思っている人たちに対してもそう思ってほしいと思っている。そんな叶わない願いをいつも抱えている。コロナ禍で人と人との繋がりについてよく考えるようになった。もう二度と会えない人のことを思うことが増えた気がする。逆に目の前にある自分が向き合うべきことから逃げているような気さえしているし、インターネットでは今日も平気で誰かが誰かを傷つけて、それを傍観することしかできない自分がいる。マッチングアプリで結婚する人も増えた(どうでもいい)。

 

もう3年も前に受け取った「サーチライト」と記された脚本には、人と人が繋がっていくことの大切さも面倒くささも全部詰め込まれているような気がした。主人公は内田果歩というぱっと見、何の変哲もない女子高生である。放課後、いつものように同級生の友だちとファミレスに行っても果歩は何も注文できない。夕ごはんの食材を買うために訪れたスーパーで、昔からよく知っている店員のおばさんとレジで話しながらお金が足りないことに気づいた果歩は結局何も買わずにその場を去ってしまう。友だちもおばさんもそんな果歩の小さな異変に気づきながらも、それは日常生活における些細なひっかかりとしてただ過ぎ去ってしまう。そんな些細なひっかかりをきっかけに、果歩の人生(物語)に介入してくるのが、同級生の輝之だ。明け方の街角で何かを探して彷徨っている果歩を見つけた輝之は以来、彼女に対してどう寄り添うべきかを模索する。果歩のことを知ろうと近づけば近づくほど、彼女は離れていってしまう。「貧しさ」という孤独を抱えたもの同士の磁力が互いを引きつけ、反発し合うように。それでも輝之はその理由も手段もわからないまま全力で果歩を守ろうと磁力の法則を突破しようとする。ぼくはたぶん、そんなふうに誰かの人生に想いを馳せて、実直に行動ができる輝之のことがうらやましかったんだと思う。病気を抱えたお母さんとの暮らしを守るために愚直なまでに自分の信念を貫く果歩と、そんな果歩を守るために実直に走りつづける輝之。ぼくは年甲斐もなく、彼らの信念と物語にとことん寄り添って、共に走り抜けようと思った。

 

というわけでぼくの監督最新作となる『サーチライト-遊星散歩-』の劇場公開が始まります。1014日から新宿のKs cinemaにて、1020日以降は徐々に公開館数も増えて、全国のいろんな街にこの映画をお届けできればと思っています。撮影は2022年の真冬に、東京近郊にて行われました。寒さに凍えながら、街を彷徨う果歩や輝之の姿をずっと必死に追いかけていくうちに、ぼくには彼らが宇宙を漂う遊星のように見えてきて、「遊星散歩」という副題が思い浮かびました。いつの間にか酷暑も終わり、冬への扉を開きかける季節になってきましたが、是非若き遊星たちが漂う物語を、映画館という極上の暗闇で楽しんでいただければ幸いです。この場で改めて、この映画を支えて、尽力してくれたスタッフや俳優部に心からの感謝を送りたいと思います。本当にありがとうございました。きっとこの映画はとても幸せです。AさんやBくん、Cくん、Dくん、そしてEくんにもいつかこの映画が届きますように。いやアホか、届けなきゃいけないんだよ。がんばれ、俺。

最後になりますが、この映画は昨年末から今年頭にかけて音楽と映画の祭典・MOOSIC LABで先行上映され、たくさんの人たちにこの物語を受け取っていただきました。観ていただいた人それぞれの生活や暮らしに結びついて、それぞれの言葉や想いが生まれて繋がっていくという、映画にとって、そして僕たち作り手にとって本当に幸せな体験をさせていただきました。今回の本公開に向けても、これまでこの映画に出逢ってくれた方たちの愛ある応援によって心から支えられてきました。そんな方たちに自分からの感謝の意というほどではないのですが、この『サーチライト-遊星散歩-』に寄せていただいた沢山の感想をコラージュさせていただいた、特別ビジュアルを公開します。この小さな映画の旅は始まったばかりですが、もっともっとたくさんの人に出逢って、ぼくらだけでなく、この映画を愛してくれた人たちにとっての大きな宝物となるべく頑張っていきますので、今後とも宜しくお願い致します。

 

https://searchlight-movie.com

 

監督 平波 亘

この世界に生きるすべての餓鬼たちへ -映画『餓鬼が笑う』に寄せて-

 

1. きみは一体何者なの?

 

自分にとって表現とは何なのか。それはすべての表現者が常に抱えている命題だと思う。極端に言ってしまえば、表現とは生き方そのものである。広義的な意味では、それはこの世に生きるすべての人間に当てはまる問いにだって成り得るだろう。自分は一体何者なんだ?と。

誰もがそういう疑問を常に抱えながら生きている。たぶん無意識に、深層心理の奥に。そんな青臭い永遠の問いに見て見ぬふりをしながら。きっと、そうしないと、自分の中で大事にしてきた何かが壊れてしまうから。そんな気がするから私たちは自己や他者、物事に対しての距離を適切にとる術を学んできたのだろう。

表現を生業とする者の大半は、そういった処世術とうまく向き合ってこれなかった人たちだ。少なくとも自分がそうだから、そういうことにしたい。というか、そうあってほしい。

 

僕は自分のつくる作品こそが自分そのものだと思ってる。自分が「映画」という表現を志して上京したのは2004年のことで、それ以来この業界の片隅で細々と働きながら、何とか自分の映画を創る日々を送っている。こんな自分でさえ20本以上の作品を作って、小規模ながら世に送り出してきた。そしてひとつひとつの作品と向き合うたびに、最初に書いた命題と向き合ってきた。

 

自分にとって表現とは何なのか。その命題は時代の変遷と共にある。20年以上前の話になるが、大学を卒業して地元で就職をした僕は、一度はイメージしたことのある映画への道をすでに諦めていた。ある日、いつものように朝起きてテレビをつけると、遠くの国でビルに飛行機が突っ込んでいく映像が流れていた。そのニュースに衝撃を受けると同時に、そこに映された事象に潜む人間の思想や悪意の凄まじさに打ちひしがれてしまった。娯楽や芸術、スポーツや伝統など、あらゆる表現の歓びを創造できるものだと信じてきた人間の、全く別の可能性を目の当たりにしてしまった。そんな言いようのない感情に揺れながら自分の中で「映画を創りたい」そんな思いが再び芽生えた。それは自分が信じてきたものを肯定しながら、創作で現実に立ち向かう、そんな決意だったように思う。それからしばらくして僕は東京の街に出て、映画を創り始めた。たくさんの戦友や仲間たちに支えられながら。そしてたくさんの別離を繰り返しながら。時は過ぎる。

 

2. 100年前って想像できる?

 

忘れもしない2020年の47日のことである。年の始めから猛威を奮いはじめた感染症の拡大から、ついに緊急事態宣言が発令された日、僕の携帯にある男から着信が入った。その男は「大江戸康」という古美術商で、前年に自分がスタッフ参加した作品の出資者だった。話を聞くと、ある脚本があってそれを読んでほしいと言うので一度会ってみることにした。大江戸氏から手渡された脚本は、骨董屋としての自身の経験が詰め込まれた自叙伝に近いものだった。しかしこれは果たして脚本と呼んで良いものなのか、それぐらいに従来のフォーマットからかけ離れた文体がまず特徴的で、自分の第一印象としてはまるで近代小説のような読み心地だった。骨董屋を志して路上で物売りをしている貧しい青年がモラトリアムを撒き散らし、先輩商人に誘われるがままに山奥で開かれる市場に参加する。そこで挫折した青年はその帰路でこの世とあの世の境界線がわからなくなっていく…。物語の骨格はこんな感じではあるが、描き込まれたシーンのディティールやロケーションのスケール感など、真面目に考えたら10億円ぐらいかかるのではないか?と思うぐらいの情報量がその脚本(の、ようなもの)には詰め込まれていた。「この脚本の監督をしてほしい」という大江戸氏の依頼を自分はすぐに承諾した。ただし、イメージしている製作予算に対しての現実的な脚本作りは自分に任せてほしい、という要望を添えて。

 

大江戸氏による初稿に惹かれた理由の一つとして、既成概念に捉われない自由な発想が全編を貫いていたことが大きかった。予算や制約についてあらかじめ考慮されて書かれた脚本ほどつまらないものは無い、というのが多くの作品に携わってきた自分の持論だ。脚本における想像力の翼はできるだけ大きく、高く羽ばたいてもらった方がいい。それに対して現場をつくっていく我々の創造力がどこまで脚本に応えることが出来るのか。映画作りの一番スリリングなポイントの一つだ。ただ大江戸氏の初稿はスケールの何もかもが違った。そこに描き込まれた自由度と大江戸氏の自伝的要素をなるべく損なわずに脚本を脱構築していくのが自分のテーマだった。

 

もう一つ、この監督を受けた理由として、パンデミックで覆われた世界で創作することへの欲求だった。現在も尚、我々を脅かしている感染症の蔓延は、仕事の在り方や生活様式を変えることを余儀なくした。より閉鎖的な状況を強いられる中で生み出す表現は、これまで以上の強度や硬度を持って臨まなければいけない。これまでも様々な天災、人災、疫災を経てきた地球の歴史の中で、それを乗り越えてきた人間の強さや逞しさみたいなものを映画で刻みつけたい。大江戸氏による初稿には、その可能性を感じられるワイルドさとデタラメさに満ち溢れていたのだ。

 

大江戸氏に手渡された脚本の表紙には『弱い光』というタイトルがつけられていた。未熟でありながら可能性を秘めた青年の命の輝きに倣って込められたその題名は、文学性も感じられて好みではあったのだが、映画の冠としては些か脆弱にも思えた。そもそも「餓鬼」というものは初稿の段階から、地獄に巣食う異形の存在として登場はしていたのだが、脚本を書き直していく中で「もしかしたら私たちが暮らすこの世界こそが地獄であって、この物質社会に塗れている我々のほうがよほど餓鬼と呼ぶに相応しいのではないか?」という想いが自分の中に芽生えたのである。しかし、人間=餓鬼というのは揶揄が過ぎるのではないか?という懸念がありつつ、人間が持つズル賢さ、狡猾さ、図々しさ、卑しさといった要素をマイナスからプラスへと座標軸を渡って、強さや逞しさに変換してきた人間の姿をこの物語に刻みつけたい。パンデミックによる閉鎖的状況の中でそんな欲望が勝った。こうして、この映画は『餓鬼が笑う』と命名されるに至ったのである。

 

ただ、そう言いながらも本作の主人公である大という青年は、モラトリアムに捉われたとても脆弱な存在だ。だけど、この世界で強くなることを頑なに拒む彼の意志には、間違いなく純粋で優しくてとても弱い光が宿っている。強くないと生き残れない世界なんて間違っていると。僕が描きたかったのはそんな青年が世界に立ち向かう姿だったんだ。彼は映画の中でたびたび自問自答する。「自分は一体何者なんだ?」と。度重なる困難を経て(乗り越えたかどうかは定かではない)彼が辿り着いた答えは、僕だけが知っているし、映画を観てくれた人たちそれぞれにあるのだと思う。

 

3. 今日はいい満月だね

 

ここからは映画『餓鬼が笑う』の世界を彩ってくれた俳優たちを敬称略にて紹介したい。主人公の青年・大を演じたのは田中俊介。ひたむきで純粋でありながら、きちんと狂気を兼ね備えた彼の佇まいは、この作品に触れる人たちを心地よい映画の旅へと導いてくれるだろう。大が出逢うヒロイン・佳奈には山谷花純。彼女の秘めた意志を隠しきれない眼差しと凛とした立ち姿は、ただのヒロイン然としてだけでなく、大と対峙する存在として強く美しく、そしてしなやかである。先輩商人・国男を演じた萩原聖人はこの映画におけるメフィストフェレスとして、絶望の国と希望の国のあいだに架かる橋を自由に、そして飄々と渡ってゆく。片岡礼子の妖艶に満ちた芝居は、もはや生き様としか思えないぐらいにキャラクターが抱く業を体現してくれた。一見世渡り上手に見える柳英里紗演じる妙の前半と後半のコントラストは、単純な光と影ではない陰影を映画に与えてくれた。川瀬陽太は悲劇の中に存在しながら、どうやっても滲み出てしまう人間のユーモアを携えていて、それが本当に嬉しかった。川上なな実が演じたのはもはや人間ではない。川上なな実にしか表現できない存在感で、大を、そして観る者をキュートに翻弄する。田中泯演じる画家は生にしがみつきながらも、死への憧憬を抱いている。田中泯だからこそ出来る生死のテクスチャーを是非ご堪能いただきたい。

 

古書店主の五頭岳夫はあたたかみのある土着性を、画商役の原田大二郎は切実なる喜劇性を映画に添えてくれた。二ノ宮隆太郎は市場に巣食う骨董屋(果師と呼ばれる)と地獄の餓鬼を演じ、無垢な恐怖を放つ。藤田健彦も同じく骨董屋と餓鬼を演じているが、和装姿も相成って朗らかな空気を纏っている。同様に永井秀樹はベテランの風情を醸しながら、人間の粘着性を表現してくれた。市場を取り仕切る会主役の大宮将司はその堂々とした佇まいと庶民性でシーン全体を盛り上げる。長尾卓磨演じる目利きは只者ではない空気を一瞬で表現しなければならなかった。彼の魅せる戦いには是非注目してほしい。池田良は仕込み屋と呼ばれる商人を演じてくれたが、物怖じしないふてぶてしさがピタリとハマった。競り全体を仕切る振り手役の宮城俊介、彼なしではこの市場のシーンは成り立たなかった。それもそのはず、彼は本職の振り手なのだ。骨董市場のラスボスとも言える張社長も、本職の呉廸が演じてくれて市場を包む緊迫感を与えてくれた。他にも市場に登場する骨董屋たちはそのほとんどがプロの方々なので、彼らの協力によって成立したと言っても全く過言ではない。

 

大と一緒に路上で商売している佐川役の須森隆文、彼の不敵さと存在感は誰にも真似できないし、同じく石井役の牛丸亮は持ち合わせた口八丁手八丁さで現場を豊かにしてくれた。大の運命を変える婦警役の後藤ユウミと影山祐子、2人合わさることで放たれる冷気の凄まじさよ。少女役の吉原悠莉のビー玉のような純真な瞳は物語の希望であると断言したい。少年役の柳下晃河は自分の「一人ごっつ」の少年マネキンみたいな、という自分の訳わからん演出を難なく体現してくれた。看護師・恵役の田中真琴は言葉や動きに意味を持たせ過ぎない塩梅がとても心地よく、婦長役の結城和子も真摯なリアリティーを以って存在してくれた。土屋いくみ演じる大学の講師は憎まれ役ながらも、大が忌み嫌う世界を象徴してくれたし、トム・メスが扮した西洋学講師の朴訥とした佇まいと発語は忘れ難い。窪瀬環は赤提灯を切り盛りする娘を快活に演じて物語のある転換点を担ってくれた。鈴木太一演じるホームレスは本人のおおらかな魅力と相乗効果で割とヘビーなシーンなのに、妙に可笑しかった。物語後半、現世の地獄を体現する夜光虫に扮してくれたのは迫本慎也、田中爽一郎、森下史也。迫本の純然たる暴力衝動、田中の剥き出しの溌剌さ、森下の客観性はいずれも素晴らしく。柴山美保は姿こそ見せないものの、声だけの芝居で痛快さを見せつける。木村知貴もある種の暴力を背負った存在として登場し、不安の種を所々に散りばめていく。運転手役の橋野純平は市場のシーンにおいて表情だけで観る者に何が起こっているかを伝え、存在感と不在感を残してゆく。

 

以上、駆け足になってしまったが『餓鬼が笑う』の俳優陣を紹介させてもらった。ここに書き連ねたのはあくまで自分が監督として感じた一側面に過ぎないので、どうか観る人それぞれの眼で、さまざまな魅力を発見してほしい。

 

 

4. もっと綺麗な花をあげられるようになるから

 

最後に本作を支えてくれたスタッフの方々を。撮影を担当したのは伊集守忠(『ベイビーわるきゅーれ』『犬も食わねどチャーリーは笑う』)、照明に大久保礼司(『本気のしるし』『MOTHER』)、録音・整音・効果・劇中音楽は松野泉(『ハッピーアワー』『そばかす』)、美術に中村哲太郎(『窓辺にて』『散歩時間』)、スタイリストは小笠原吉恵(『アルプススタンドのはしの方』『転がるビー玉』)、ヘアメイクに河本花葉(『シュシュシュの娘』『うみべの女の子』)、助監督に滝野弘仁(『はだかのゆめ』『街の上で』)、CG担当は西川文恵(『めぐみへの誓い』)。これまでも僕の作品を手がけてくれたり、助監督現場で出逢った無敵の彼らを中心に、助手や応援のスタッフを含め、本当に頼もしい猛者たちがこの餓鬼が笑う』という作品を心底楽しみつつ、ベストワークをやってのけてくれたことを誠心誠意全力で多くの人たちに伝えたい。

 

 

特に、誰よりも早くこの企画に巻き込まれてくれて、一緒に右往左往しながらいつも笑って僕を支えてくれたプロデューサーの鈴木徳至氏(『枝葉のこと』『僕の好きな女の子』)と、自分という何者でもない男を信じて、監督することを委ねてくれた、大江戸康氏には心の底から感謝している。そしてこの作品の宣伝を引き受けてくれたブライトホース・フィルムの岩井秀世氏と、K's cinemaを始めとした公開劇場の皆さまにも猛烈なる感謝を。もうだめだ。もうポケットが足りないとありがとうが泣いている。

 

当たり前なのだが、映画というものは数え切れない人たちの情熱や信念や魂といったものが込められていて、それはきっと監督の自分ですら想像し得ない形へとこの映画を導いてくれたのだと信じている。企画から脚本、準備から撮影、編集から仕上げ、宣伝、そして劇場公開へと至り、映画館で誰かが出逢ってくれることで初めて映画は完成する。そのプロセスすべてがまさに奇跡であり、自分の中でかけがえのない財産となっていく。そんな当たり前のことを何度も何度も何度も噛みしめながら、最後に主題歌となったイースタンユースの歌詞で締めたいと思う。

 

“俺たちの現実は今日も続いている 人間の毎日は今日も続いてゆく”

 

この世界に生きるすべての餓鬼たちに愛を。

 

 

監督 平波 亘

 

gaki-movie.com

『the believers ビリーバーズ』セルフライナーノーツ

update at 2020.11.14

光の呪縛、に自分はずっと苦しめられてきたのかもしれない。

 

2016年冬、自身にとって初めての演劇作品『LIGHTS ライツ』を上演した。そこで描かれた物語は、誰かを思い過ぎるあまりに傷つけ、失い、過ちを犯してしまう小さな人間たちの話だった。上演時間は2時間半、演者も僕も本当に消耗することでしか向き合えない。稽古期間も本番中もずっとそんな時間を過ごしていた。だからこそ、そこで得たものは果てしなく大きく、そして失ったものも大きい。

 

「誰かがいなくなる」ということについて、ずっと考えてきた。歳のせいもあり、誰かと別れを迎えることが増えてきた。あの日笑って「じゃあ、また」と背を向けたあの人には二度と会えない。

 

『LIGHTS ライツ』は残された人間たちがどうやってその喪失と向き合っていくのかということを主題にしていたのだが、自分の心境としてその物語と向き合うことが本当に生きる意味だったし、終えた瞬間、すっかり心にぽっかりと穴が空いてしまった。敢えてムチャクチャ大袈裟に言わせてもらうと、僕は一度『LIGHTS』に殺されたのだ。それが光の呪縛だ。その物語の中で命を落としてしまうのも、光という女性だった。なぜ彼女は殺されなければならなかったのか。物語のために。

 

そうしたタイミングでこの映画『the believers ビリーバーズ』の企画に声をかけられたのだが、僕はずっと自分が描くべき、新しい物語を考えられずにいた。ワークショップオーディションを経て出演者も決まったのが2016年の春。僕は「少し時間が欲しい」とお願いして1年間出演者に待ってもらった。何をそんなに悩んでいたのか?今の時代にインディーズで映画を作る意味とか、フィクションで描くべき世界のあり方とか、役者とはとか、そんなことをひたすら考えては逡巡していた。どんな言い方をしても全て言い訳にしかならない。

 

そんなこんなで季節は巡り、2017年の春が来た。僕を信じて待ってくれていた8人の俳優と向き合う時が来た。しかし、あいかわらず僕は自分が進むべき道を定め切れずにいた。身の丈に合ったような話にしようとは思っていた。今まで僕が撮ってきた物語といえば、髭男が殺人犯と仲良くなる話だったり、娼婦と男娼のいがみ合いの話だったり、労働者がひたすら虐げられる話だったり、どこかで現実と剥離した部分をフィクションに求める要素が強かったように思う。今回の企画の予算規模も考え、敢えて普段着のような映画にしようと思った。取り立てて普通の暮らしを送る人たちの日常を描いた話。そうすることが正しい気がして、僕は4つの物語を考えた。

 

①音楽を作る恋人と暮らす女性の一年間「ドとレとミとファとソとラとシの音がでない」

②想い合いながら離れては忘れられない女性同士の数年間「彼女」

③街を彷徨う男と女のそれぞれの1日「シティポップ」

④終電後の街で出逢った男女の一晩「終電後の世界」

 

8人の俳優を2人ずつ、この4つの物語の主軸に添えた。とりあえず①から撮り始めることにした。当初は短編を4つ撮るみたいな気持ちでいたのかもしれない。それぞれ2日ずつ撮影して、8日くらいで撮れるだろうと。脚本書いて一本撮ってはまた次の脚本を書いてまた撮って…実際の撮影スケジュールは以下のような感じだった。

 

3月14日「ドとレとミとファとソとラとシの音がでない」撮影①

3月15日「ドとレとミとファとソとラとシの音がでない」撮影②

3月28日「彼女」撮影①

3月29日「彼女」撮影②

4月6日「シティポップ」撮影①

4月8日「シティポップ」撮影②

4月11日「シティポップ」撮影③ 「彼女」撮影③ ドとレとミとファとソとラとシの音がでない」撮影③ 「終電後の世界」撮影①

4月12日「終電後の世界」撮影② シティポップ」撮影④

4月13日「終電後の世界」撮影③

4月23日「終電後の世界」撮影④ 「シティポップ」撮影⑤ ドとレとミとファとソとラとシの音がでない」撮影④ 「彼女」撮影④

 

上記の通り、当初の目論見は撮影しながらどんどん変わっていった。おそらく4月になった時点で、短編を4本作るという気持ちは無くなって、長編映画にしようという気持ちが強まっていた。そのためにシーンを増やしたり、帳尻を合わせたりして、後半は4つのエピソードがぐちゃ混ぜになる結構カオスな撮影だった。最初はそれぞれのエピソードの台本しかなかったのに、最終日には「ビリーバーズ」という長編の台本になっていた。

 

もともとフレキシブルな映画作りを好んでいた部分はあるのだが、今回に関してはフレキシブルを超えてブロークンな映画作りだったように思う。スタッフも僕と撮影と録音の基本三人体制。8人の役者がTEAM BELIEVERSとして、美術を作ってくれたり、カチンコ打ってくれたり、弁当買ってきてくれたり、車を借りてきてくれたりした。こういう体制にしたのはもちろん予算的な制約もあったのだけれど、そもそも自分が一度、原始的な映画作りに立ち還りたいという想いがあったからだ。だから撮影カメラとして10年以上前に愛好していたDVX100を使用したし、カメラマンや録音マンも当時まだ学生だった加藤明日花と内田雅巳にお願いした。スタイルとしては原点回帰だったように思うけど、やはり基本的に現場の何もかもを司らなければならないのは、精神的にも体力的にも大変だった。クレジットはしてないけど、照明も自分でやった。結果、10日間に及んだ撮影は4月24日の朝、新宿で無事にクランクアップを迎えた。そのあと24時間営業の居酒屋でみんなと飲んだ。それから公開まで3年半を費やすことになるとは誰も予想していなかった。

 

短編を4本作るつもりが撮影途中で長編の方向にシフトする、というやり方は当然のように編集作業を困難にさせた。自分の中に作品のあり方としていくつかコンセプトを持っていたのだが、それは例えば「たまたま発見した自主映画を適当に繋ぎ合わせた」とか、「音楽のサブスクリプションに倣って、プレイリスト的な映画にする」とかそういうもので、試行錯誤や取捨選択の繰り返しをひたすら続けた。自分が助監督として参加する撮影が終わっては編集を見直して「違う」と思った。実は何度かキャストを呼んで試写的な事も行ってきた。意気揚々と作品を見せてはそのたびに落ち込んだりもした。本当にその繰り返しを続けた3年間。僕はまた自分を信じてくれた俳優たちをひたすら待たせることをしてしまった。

 

2020年1月、作品を観てくれた池袋シネマ・ロサのご厚意で何とか劇場公開が決まった。浮かれた僕は試写室を借りて、関係者試写を行った。そこで作品を観て僕はまた「違う」と思い、大幅な修正作業をすることにした。そうした最中、世界中を新型ウィルスの猛威が襲った。変わっていく、奪われていく、失われていく人々の暮らしを目の当たりにしていく中で、自分が向き合い続けているこの厄介な映画の意味が少しわかった気がした。これは不恰好でも、不器用でも、不様でも、生きていかなきゃいけない人たちの映画だ。舞台劇『LIGHTS ライツ』で光という最愛の人を奪われた主人公はこう叫んでいた。「幸せだよ。だって生きているんだから」

 

そんなわけで、これを書いている2020年11月14日、池袋のシネマ・ロサで『the believers ビリーバーズ』は初日を迎えることになりました。未だ感染症の脅威が消えないこの世の中で、劇場で映画を見ることに対して不安を払拭できない方もたくさんいらっしゃると思います。無理はしなくていいんです。もちろん映画を劇場で観て欲しい気持ちはむちゃくちゃありますが、僕らの人生が続いていく限り、いつか出会えることを信じています。だって映画はずっと残っていくものですから。僕は生きます。

 

何てことない1日を愛せる世界でありますように。

 

平波 亘

 

『the believers ビリーバーズ』予告編

https://youtu.be/jyiYesK4S8I

「あの人はどこにいるの?」セルフライナーノーツ

update at 2020.09.19

糸井重里さんが主宰するWEBサイト、ほぼ日刊イトイ新聞の人気連載企画「ほぼ日の怪談。」の実写ドラマ化で一本撮りませんか?という有難いお誘いをいただき、作った一本です。原作にあった3つのエピソードの要素を拝借して脚本を書きました。母親と姉妹の3人親子という設定は自分のオリジナル要素です。

 

「ほぼ日」から派生した企画ということで、ホラーではあるけど日常に寄り添えるものにしたいという思いは最初からありました。引っ越ししたばかりのワクワク感だったり、日が暮れる前の何だか淋しい風情だったり、風呂上がりの牛乳の美味しさだったり

 

もう一点、演出と物語で重視したことは、霊的なことに限らず、日常に起こる不穏で不可解な出来事というのは、何かしら負の感情や宿命を背負った者が引き寄せるということです。パッと見は明るく仲の良い女性3人の家族ですが、彼女たちが抱えるもの(背景)を敢えて明確にはせず、日常の地続きにある「何か」との接点を描くことを試みました。(背景についてはキャストには説明したうえで演じてもらってます)

 

そうして生まれたのが西田汐里さん(BEYOOOOONDS)演じるカヨというキャラクターです。あまり説明し過ぎるのもあれなのですが、僕の思う恐怖に対峙する主人公の在り方を、西田さん天性の太々しさと繊細な感性で表現してもらいました。西田さんの見せる表情の変化にご注目ください。お姉ちゃんのサヨを演じてくれた都丸紗也華さんはお仕事としては3回目で、堂々とした佇まいで恐怖に慄く様を演じてくれました。お母さんのミヨ役の正木佐和さんは念願!!のキャスティングでした。飄々としながらおかしいお母さんに妙味を加えてくれました。あと、謎の女役の紫陽子(しょうこ)さん、僕の作品の常連でもある橋野純平くん、とあいも変わらず役者さんたちに支えてもらった現場でした。

 

撮影を担当してくれた早坂伸さんも、ずっとお仕事したかった念願の方。いろんなアイデアを提示してくれながら楽しい共同作業ができました。サウンドデザインは西岡正己さん。僕の意味不明な要求にも快く応えてくれて、豊かな音世界を築いてくれました。音楽は前作「ワールズエンドファンクラブ」も手がけてくれた三島ゆうさん。「ワールズエンド~」と全く違った音楽設計が素敵です。

 

今回、12分という限られた尺の中で、何をどれだけ表現できるのか?というのはとても刺激的な作業でした。「ほぼ日の怪談。」、是非シリーズ化してもらって来年もチャレンジしたい企画です。

 

【放送情報】
■2020年9月23日(水)23:00より、テレビ神奈川にてオンエア!

【配信情報】
■2020年9月20日(日)19:00〜ひかりTV、dTVチャンネルにて配信!

 

『ほぼ日の怪談。』公式ホームページ

https://www.tvk-yokohama.com/hobonichikaidan/